エリック・サティの『映画』をどう聴けばいいのだろう?
実のところ、岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)を読んでは、考えが行ったり来たりしている。
本書によると、音楽に接する時、「それが生まれた歴史/文化の文脈から決して完全に切り離すことは出来ない」のであって、「背景についてまったく知らない音楽は、よく分からないことのほうが多い」という(岡田、p.168-9)。
『映画』という10分弱の四手ピアノ作品を、私が好んで聴いたのは、高橋悠治&アラン・プラネスの小気味よい録音だった。解説には、『本日休演』という2幕からなるバレエ音楽の幕間に、無声映画が投影されながら演奏された音楽。そしてもともとは管弦楽だったのを、ダリウス・ミヨーがピアノに編曲したと書かれていた(『サティピアノ作品集3』ブックレット参照。これと似たような説明は、大昔に持っていたアナログ盤解説にも書かれていた記憶がある)。
そこで問題である。サティの歴史的背景をこの程度しか知らない上で『映画』をどう聴けばいいのだろう?
ピアノ音源でいいのがあればよかったのですが、トイピアノで演奏した、なかなか愉快なものがあったので参考に。私の知る高橋悠治のイメージにかなり近いものです。
Cinema | Erik Satie (Toy Piano version)
ウィキペディアに『本日休演』はこう紹介されている。
その映画『幕間』ではらくだが引いた霊柩車からジャン・ボルランが飛び出したり、テラスでマン・レイとマルセル・デュシャンがチェスをしたり、空からエリック・サティとフランシス・ピカビアが降りてきてパリめがけて大砲を撃つなどといった、全くストーリー性のない作品となっている。
こんな筋書きはこの歳になって初めて知った。でも、この内容を知ったからといって、耳に響く音楽に何かが投射されて変化をもたらすとも思えない。映像は、まだ駆け出しとはいえ、のちの巨匠ルネ・クレールが担当している。これを見ておかなければいけないのか。幸いなことに、インターネットアーカイブで観ることができる。
サティ自身も飛び跳ねて映ってますね。ある意味、貴重。映像を見る限り、当時のパリの文化や社会情勢、特にダダやシュルレアリスムなどの芸術傾向も無縁ではなさそう。それも調べなければいけないくなる。
この映像を観たうえで、ピアノに編曲された『映画』を聴く。
うーん。
うーん。
あまり上品とは言えないカットや、解釈に困るカット、巧みな編集カットなどが回想されるのはいいのですが、どうしてもピアノ音楽の軽快さに投射されない。オリジナルが管弦楽という違いがあるとしても、やはり映像作品との違和感が残る。
葬送の描写がショパンの葬送行進曲のパロディだったり、暴走する霊柩車の音楽効果だったり、確かに映像音楽としての役割を含んでいるらしい。
そもそもがダダである以上、映像にしばられる必要すらないのかもしれない。
既成概念を砲撃する痛快さ、理念の結晶のような19世紀音楽との決別、そんなエッセンスくらいは聞き取れるのかもしれない。
でも、わざわざフォトモンタージュのように映像を重ね合わせるより、そこにある音楽だけで独立させてたほうが、音楽としても楽しいし、サティ自身もそう願ってたんじゃないだろうかと思うのですが・・・。