クラシック好きの休日

隔日更新。特にクラシック音楽と本について。

父を非情というにはあたらない?芥川龍之介『地獄変』

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ヴォネガットの短編集でもそうでしたが、いくつもの作品が収録された物語は、いつしか記憶が曖昧になってしまう傾向があるようです。

最近、ふと芥川龍之介の短編『地獄変』を思い出しました。数えて三回くらいは読んだ気はするのですが、改めて読み直してみると、記憶の中で別のストーリーを構成していてびっくり。ほんとうはどんな話なのでしょうか?

 

(ネタバレ注意)

堀川の大殿様の屋敷に、ひとりの画家が雇われていた。性格はとても傲慢だが、描くと魂が宿るような鬼気迫るものを描く初老の男だった。画家には娘がいて、大殿様の小女房として暮らしていた。彼女は父とは正反対に気立ての優しい娘だった。大殿様は画家の娘に気があったが、頑なに断り続けていた。

やがてその大殿様からの依頼で、画家は『地獄変』という恐ろしい主題の注文を受ける。弟子にそれらしい格好をさせて素描をとり、地獄図を着々と準備していた画家。しかし、絵のメインとなる火炎地獄のところで、作業は上手くいかない。そこで画家は資産家に、次のように要求する。「実際にこの目で見たものでなくては描けない。激しく燃え盛る車を描き、できれば罪深い女が炎上する姿も見たい」。返事は「ノープロブレム」だった。

ある日の真夜中、廃屋の広い敷地内に、大殿様はその舞台を設定した。画家以外にも知人も集めておこなわれた。ところが、車の中には、なんと画家の娘が鎖でしばりつけられている!画家が「あっ!」とそのことに気づいた途端、大殿様は即座に火をつけるよう命じて派手に燃やす。最愛の娘を殺され唖然とする画家だったが、次第に絵師としての目でしっかと対象を見て、後日『地獄変』を完成させ寄進する。その翌日、画家は自殺してしまう。

 

関心のある方はぜひ原作をお読みになることをお勧めします。

 

大殿様の蛮行はまさに愚行でしょう。画家の傲慢な態度やその娘に気に入られなかった程度で、見せつけに殺りくを正当化されることは許されるはずがありません。現代でいえばストーカー殺人です。死罪に相当する本物の重罪犯罪者を処刑するところを見せるのなら、それは理解はできるのですが、そうはせずに、つれなくされた気立ての優しい画家の娘を、あえて燃やす車に乗せたのです。大殿様の狙いは二つ、意のままにならない娘を殺すことと、悔いて号泣する画家を皆の見せものにしたかったのでしょう。でも、画家の狼狽は最初だけで、結局冷静に目を爛々と輝かせて観察し始めるのです。むしろ大殿様の狙いは大きく外れてしまった。

 

この話、読後にすごくストレスが残ります。

どうすればこの悲劇は避けられたのだろうか、と。

 

この『地獄変』の教訓はなんだろう?

確かに、『宇治拾遺物語』を見ると、我が家が火事で妻子を家に残したまま逃れてきた画家が、妻子の安否などそっちのけで炎に感嘆して、今後の画業のために観察する物語があります。これならわかりやすい。人の命よりも画業の金儲けを優先する、人の情けを失った男の話。

果たして『地獄変』の教訓は『宇治拾遺物語』と同じなのでしょうか?

宇治拾遺物語』は人として愚かゆえに、家族より金策に目が行った。一方、『地獄変』は親としての情はある。娘がこれから危険な目に合わされることに、悲観的になる。しかし、火炎に憑りつかれて魂はすでに地獄にあり、もはや心は娘と同じ火炎に包まれていると同然。画家としての昇華と、魂の昇華がすでに始まっているのではないか?描き終わった画家は、先立たれた愛する娘のもとに行く。画家は家族を忘れて画業を夢見る愚か者ではなく、家族を愛する良き父だった。だから先々の儲けを口にすることもなく、死を選んだのではないでしょうか?

そう考えると、『宇治拾遺物語』の真逆の教訓を芥川が描いていることになりそうです。そうだと救われるなあと、なんとなく期待したりします。

国語のテスト苦手だから、解釈ぜんぜん間違ってるだろうなあ・・・。

 

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地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫)