クラシック好きの休日

隔日更新。特にクラシック音楽と本について。

幸せってそれでいい?~ヴォネガット「ユーフィオ論議」

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以前、『カート・ヴォネガット全短篇2』をざっと読んで、ざっと感想を述べました。さすがに25篇も短編があると、一篇一篇に思うところがあっても通過してしまうことになる。これはすごくもったいない。

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そこで折角なので、20ページ程度の短編、「ユーフィオ論議」を少し考えてみたい。

かなり踏み込んで考えるので、まだ読んでない方のために、ここからネタバレ注意の警告を出しておきます。

 

(※以下、ネタバレ注意です)

 大体の内容です。

 

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ある変わり者の天文学者が、電波望遠鏡を独自に開発して、謎のシューという音を出す空間を発見する。その実体はわからないものの、その音を聴くと至福に包まれてしまうことが判明している。その効果を悪用して、一儲けしようと「私」に相談を持ちかけてきた。

まずは、その電波を拾って放送して受信する機械「ユーフィオ」を作って、実用テストをする。音を聴き続ける家人はおろか、家を訪れてくる人はすべて「ああああああァ」と声をあげて、あらゆることがどうでもよくなってしまう。用事も忘れ、食べることもどうでもよくなり、何があっても歓声をあげ、日が経つのも忘れる。偶然の停電で「ユーフィオ」が止まるまでの一週間、その間の記憶すら吹っ飛んでしまう。まさに廃人状態。

その音が恍惚状態を作り出すまではいいかもしれない。しかし、音が流れ続く限り、幸せに包まれたまま満足してしまい、最悪は死にすら至ってしまいかねない。

 

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 大まかにはこういったテーマが扱われていた。すごく大まかだけど。 

たとえば、ベートーヴェンの英雄交響曲を聴いて、その感情的な音楽に強く心を揺さぶられて恍惚に浸ることはあり得る。でも、それは聴いている対象が音楽だと知っているし、「ごはんだよ」と呼ばれれば返事してステレオのスイッチを切ることができる。「ユーフィオ」の場合は、延々と続く一つの音で、音を受動的に聴くことから逃れることができない。

この「永続的な幸福」は「電気仕掛けの阿片」に等しく、「ローマを焼き払うよりも短い時間で文明を破壊することができる」(p. 240)。

 

感動や恍惚という体験は、少なからず人生に必要なものです。知人の語る貴重な体験談に夢中になる感覚、一冊の本を読んで共感してジンと来るあの感覚、マーラーの『悲劇的』終楽章を聴いたときのめくるめく情動、ジブリの映画を見た時の一体感、そうした感動=幸福は、私の心の中の「内なる図書館」の蔵書として入り込んでくる。必要な時に、書架から取り出して感想を述べてみたり、人生に役立つことになるのです。

「ユーフィオ」のもたらす幸福は、「内なる図書館」に蔵書化する性質を持っていません。幸不幸の判断基準の麻痺、そしてすべてを幸福に振り切らせるだけだからです。

 

人は幸せになりたいと願っている。でも、それは「ユーフィオ」のような無条件に永続的に提供される幸せでは、決してない。気がつくと、いつもの現実に戻って、決して幸せではないけれども、私という静かな部屋に戻ることが必須なのです。

矛盾しているように思える。けれども、幸せや感動や恍惚という体験は、人生の一瞬であるべきなのでしょう。さらには私の中に蔵書のように大切にしまっておける体験こそが、幸せにとって大切なんだと思えました。

 

 大切な意味が、この『カート・ヴォネガット短編集2』のわずかな一篇の中に込められています。解釈次第によっては、人それぞれの「内なる図書館」で変容して、生きがいにつながることだってあるかもしれないです。