クラシック好きの休日

隔日更新。特にクラシック音楽と本について。

読書の反省、人生の渇望

f:id:yomkik:20200829030406j:plain

「読書」という行為に、疑問を持つことがある。

一過性のことがよくあるから。

誰かの小説を読む。筋の展開を理解して、読書行為は終わる。

でも、本当は落花生のように、土に潜ってしまっただけ。本当に楽しむべきは、掘り起こして殻割って薄皮向いて食べながら雑談することじゃないか。

 

中学生の頃、太宰や安部公房を片端から読んでは、好きな文章を抜き書きしたり、それっぽい文章に似せて自分なりの感情をぶつけたりした。恥ずかしくて誰に見せるわけでもなく、それでも読書とその後のアウトプットに夢中だった。

まだ中学生だったから、20代から先の長い人生に対する道標を、どんどん作りたかったのだ。

 

50代になるまでに、徐々に読書量は中学生の頃の比ではなくなった。アウトプットもしなくなった。ひたすらインプットして、劇場で映画を一本見て帰って終わり、みたいになってしまった。心にお金に余裕がないなんて言い訳に過ぎない。

 

それなりの問題意識も持っていたし、過剰なほどのプライドも持っていた。それは二十歳前の誰もが通過するものだ。ヴィム・ヴェンダースゴダールの映画にも夢中になって、観てはその世界観や語法にかぶれた。葡萄畑で白黒写真を撮っては、その見たこともないような刷り上がった世界に刺激を受けた。インプットは必ず私という定数を入れてアウトプットを生み出した。

 

「読書」という行為が、もっと「再考」「再考」と続かない限り、きっと不毛な行為に終わるはずだ。読了、で収めてはいけない。その本を選んだ時点で、私は死生観を恋愛観を人生観を、汲み取ろうとしていたはずだ。「私の中で続く」モードを、大人を理由にやめてしまっては、読書は身に着けない宝石と同じだ。

 

死との距離も意味をなさない。確かに、中学生の頃のような無限の未来はもう喪失してしまった。しかし、中学生だった頃の私は、逆説的だが死の観念とおどろおどろしく絡み合っていた。憑りつかれて危険な状態にいたといっていい。むしろ、50代のほうが、死とある程度の距離を持てるようになって、直近の存在ではなくなった。結局、死との距離は、読後のアウトプットとあまり関係がなさそうだ。

 

でも、と私はいつも疑問に思う。「読書」って一体なんなんだろうと。