クラシック好きの休日

隔日更新。特にクラシック音楽と本について。

時代のズレを感じさせないエッセイ~角田光代『これからはあるくのだ』

角田光代のエッセイ『これからはあるくのだ』(文春文庫)を読んだ。

彼女にとって2冊目のエッセイ集らしく、単行本刊行は2000年、文庫化は2003年。2020年現在でも刊行中。エッセイとしては長寿ではないか。手元にあるのが第9刷だから、重版につぐ重版。相当読まれている本の証拠だ。すごい!

ちなみに私が『これから~』を読むのは、数えて2度目。なにげに読ませてしまう、すごい!

 

執筆時期は1993年~1999年と平成初期にあたる。著者まだ30代前後だということを頭に入れて、気合を入れて読む。その割には時代のギャップを感じない。あれ?

バイスや時事的な話題にほとんど触れていないからだろうか?

 

角田さん自身のこと、角田さんの周辺のこと、うっかりしたこと、出会ったこと、旅のこと、などを徒然と私は読んでいく。徒然と執筆する角田さんは、力まず、それでいて簡潔に想いをまとめ上げるのがとても上手い。

 

その多くは、文章の主語の「私は(が)」を省略する

料理が趣味的に好きである。(p. 17「料理の記憶」)

 

根性のない子供だったので、自転車から補助輪を取ることができなかった。(p. 26「これからは歩くのだ」)

 

たぶん、これは人によりけりだとは思う。たとえば佐野洋子のエッセイ『覚えていない』(新潮文庫)は「私は(が)」が多用される。逆に村田沙耶香のエッセイ『きれいなシワの作り方〜淑女の思春期病』(文春文庫)には、「私は(が)」がどんどん省かれてゆく。

 

エッセイだから、断らずとも「私は(が)」の意味が通じる場合が多い。

そう考えると、角田さんのように「私は(が)」をあえて省略するのは、自然体ですらある。読み手との距離感を縮める技術なんだと、感じられなくもない。

佐野さんの場合は、独特な語調と勢いで畳みかける作家だったから、それはそれで個性なんだと思う。

 

時代的なギャップを感じなかった原因は、意外と「私は(が)」を使わないことから来る、親近性にあるのかもしれない。ほんとうかなあ。

 

角田さん恐るべし。たぶんいつか3度目も読みそう、なのだ。

 

これからはあるくのだ (文春文庫)

これからはあるくのだ (文春文庫)

  • 作者:角田 光代
  • 発売日: 2003/09/02
  • メディア: 文庫