クラシック好きの休日

隔日更新。特にクラシック音楽と本について。

矛盾だらけの美の集積~三島由紀夫『仮面の告白』

 橋本治が亡くなってしばらく、書店で追悼橋本治のコーナーができた。2019年のことだった。そのなかに一冊、『三島由紀夫」とはなにものだったのか』という文庫本が目に留まった。装丁が三島の装丁を模したものだった愉快さも手伝っていたが、読めば読むほど三島のことが気になった。「三島由紀夫って大丈夫なのか?」とひやひやしながら読んだ。

 

そのなかに核のように紹介されていたのが、『豊饒の海』と『仮面の告白』だった。

仮面の告白』は昔一度だけ読んだことがあったはずだけど、すっかり内容を忘れていた。改めて読了。

まず圧倒されたのはその文体、とりわけ言い回しだった。

その手が私をおびやかした仕方は、ちょうど現実が私をおびやかす仕方そのままだった。私はそういう手に本能的な恐怖を感じた。その実私が恐怖を感じているのは、この仮借ない手が私の中に告発し、私の中に訴追する何ものかだった。この手の前にだけは何事も偽れないという恐れであった。(p. 145)

どうしてこんなに回りくどい恐れをわざわざ考えるのだろう?

つまり、客観性とは真逆の視点で、これでもかと思考を追い込んでいく人なのだ。手元にある大江健三郎『個人的な体験』と対比して気づいたのは、大江がとことん客観性に根差した表現であって、三島とはまったく別物であり、三島の「内面」への飽くなき追求は、尋常を超えて異様ですらある。そして、その葛藤を描くことこそ、三島文学の重要な点なのである。

だからこそ、三島の文章から内面(葛藤)描写を省いたら、物語として成立しないだろう。それこそが三島のアイデンティティなのだと思う。

 

恐ろしいほど神経が研ぎ澄まされていて、ヴォネガット風に「そういうものだ」なんて超然とした姿勢は一切存在しない。だからといって、計算高いわけではない。恋をするのが不器用すぎる。人間関係も不器用すぎる。生き方も不器用すぎる。それなのに自らに向けた「内省」だけは人の100倍長けている。

その内省が文章化されて、三島文学が成り立っている。意味深なアフォリズムが多く、あきれるほど。人間ここまで突き詰めて生きることは、おそらく辛いだろう。考えすぎることで手も足も出せなくなる、不自然な決定に身を委ねてしまう、そんな主人公が描かれていた。

非常に重いが、迷宮風の三島の思考には人間の垢にまみれた、矛盾だらけの美が集積している。何度も読み返すことで、ツヤの出てくる作品なのだと思う。しかも、『仮面』が三島文学の核だとすれば尚更だ。

1949年単行本刊行、1950年文庫化

 

 

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)
 

 

仮面の告白 (新潮文庫)