クラシック好きの休日

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こだわらず生きるとは?絲山秋子『妻の超然』|#005

 

妻の超然

妻の超然

 

 

ちょうぜん【超然】(世俗的な)物事にこだわらず、そこから抜け出ているさま。(『岩波国語辞典』第八版、2019年)

絲山秋子の中編小説集『妻の超然』を読んだ。「超然」という響きを「の超然」と聞くと、意味を見失いそうになる。『岩波国語辞典』には上のように説明があった。

「超然としている」のように形容動詞タリ活用をする品詞だから、違和感がある。それでも絲山は、『妻の超然』『下戸の超然』『作家の超然』と三つ立て続けに並べる。『超然としている妻』『超然としている下戸』『超然としている作家』が文法的には正しいだろう。でも、あにはからんや、意味するところが違う気がする。

『妻の超然』という響きは恐ろしい。妻の背後に静かな黒い火炎が見える。「私は知っているぞ、でも言わないぞ」みたいな。一方、『超然としている妻』には、仏様でも宿るような柔和なが浮かぶ。「すべては許される、すべては報われる」と。イメージは真逆だ。

たぶん「の」が怖いのだ。妻の属性が「超然」に限定された印象が、ホラーを醸し出すのだろう。

 

超然というキーワード以外は、三作の設定に関連はない。それぞれ独立した物語。

いずれも対峙する世界がある。妻⇔夫、下戸⇔上戸、作家⇔読者を含む世間。

浮気夫に対する超然さは笑ってしまう。上戸の振る舞いに対する超然さは物悲しい。そして読者(世間)に対する超然さは「読んで親しみを感じて申し訳ない」気がして笑えない。

生きのいい語り、淡々とした語り、そして重い語り。

『妻の超然』と『下戸の超然』は笑いと怒りが交錯する時系列が一方向性の物語。でも、『作家の超然』は私であるところを「おまえは」と言い換えてしまうため、俯瞰的な感覚のズレもあって、立ち止まりつつ物事を思案する傾向が強い。作家としての問題意識が前面にでているために、物語はさらに渦巻き模様を描いてぐるぐる思考を続ける。

全ては焚き火のまわりの物語から始まった。

子供も大人も、同じ話を何度でもせがんだ。(中略)

だが、誰もが不特定多数からの反応を求めて発信をはじめたとき、物語は滅び始めた。世の中は作家志望で溢れた。彼らの書く「作品」は、主に功名心からできていた。(絲山秋子「作家の超然」、『妻の超然』所収、新潮社、p. 261)

 これは最終章「文学の終焉」の出だしだ。絲山はここで宣言しているに違いない。SNSやネットでつながり続けるこの時代に、物語るとはいかなることなのかと。

私も物語るのは好きだ。特に、息子や妻相手にとりとめもない架空話を展開させるのが好きだ。これは絲山のいう「焚き火のまわりの物語」で、ローカルな、その場に応じて変容さえ厭わない自由度高めの物語。必ず双方向的に茶々が入れられる。それも楽しみのひとつだ。そして茶々もアイデアに盛り込んでいく。もちろんすべてが即興でおこなわれる。

文学はオースター『幽霊たち』の窓際の孤独な男のように、一部屋に隔絶されたほうがいいのだろうか?カフカのように誰にも読まれずに燃やされるほうがいいのだろうか?(実際は遺族に燃やされなかったが)。

たとえば私は火星移民の物語を書き溜めている。『火星年代記』そっくりだが、孤独な世界で生きていく人たちをいろいろな設定で表現してみる。また、木星にいるはずのない鹿の話。書けば書くほど、これは外に出せないなと思う。不特定多数の反応なんて当初から考えていなくて、そもそも私は作家志望ではない。ブログで思うところを吐き出すのが精一杯だ。

 

『妻の超然』に「一人グーグル」という思考手法が紹介されている。これは面白い方法だった。一人部屋の真ん中に鎮座、瞑想して、脳内サーチエンジンを検査させる。早い話が連想。これを敢えて疑似インターネット化してみせる発想。

 

それを真似て「一人ハヤカワ文庫」というローカル表現手法を私は発想してみる。誰に向けたものでもない、家族と一人歩きする物語でもない、静かな誰にも読まれない物語。物事にこだわらずに生きるためには、ローカルを維持することが必要なのかもしれない。『作家の超然』の目指すところがこれなのかは、まだ理解できていない。

 

 2010年単行本刊行、2013年文庫化